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式年遷宮 2 木を育てる

2013年10月31日(木) 式年遷宮 2 木を育てる

 

 

 過日行われた伊勢神宮の式年遷宮について、当ブログで

      式年遷宮 1 20年に一度 (2013/10/28)

として取り上げた所だが、本稿は、その続編であり、主に、使用する用材とその育成等について述べている。

 

 式年遷宮で使われるヒノキの用材は、質と量において、大変なもののようで、我が国で木材の王とも言われる、高級木材であるヒノキ材が、1万本も必要と言われ、その中でも、主要な柱などには、樹齢が、何と、200年以上のものが使われると言う。 

一口で樹齢200年とはいうものの、20年毎に行われる遷宮のために、200年も先のことを考えて、計画的にヒノキを育成する必要があるという事で、これは、とてつもなく、難儀なことに思える。

 筆者は、樹木の育成管理についてはズブの素人だが、ひと度、ヒノキを植林すれば、後は200年間、放っておいても、ひとりで大きくなる、と言った簡単なものではないだろう。200年間に亘って、少なくとも、成長に合わせて、定期的に間伐は行う必要があろうし、台風や大雨や地震などによる、思わぬ災害への対策・対処も必要だろう。また、悪意のある意図的な盗伐も防がなければならない。

樹木の面倒を見る立場からすれば、何世代にもわたって、作業を引き継いでいかなければならず、このために、どのような組織体制にして継続的に維持していくかは、大きなテーマだろう。(以下のヒノキの画像は、ネットより引用)

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                                        ヒノキ林                            葉と実 

 遷宮のために必要な用材を調達するための山を、御杣山(みそまやま)と言うようだ。初期から13世紀頃までは、伊勢神宮の内宮、外宮の周辺領地である、

     神路山  島路山    (内宮周辺) 

     高倉山         (外宮周辺) 

の三つの山を、御杣山としていたという。でも、これらの山からの採材が枯渇してしまった事から、その後、他の地域に求められたようだ。(神宮備林 - Wikipedia

 14世紀頃から、三河国や美濃国の山を使い、16〜17世紀には、伊勢国の大杉谷に移されたようだ。でも、ここでも、原木の枯渇があり、18世紀に入って、尾張徳川家の領地である、木曽谷周辺に移されたようだ。

 その後この地域は、神宮備林として保護されて来たようだが、時代が変わって、戦後、国有林に組み入れられるなどしたものの、現在までの300年程は、殆どこの木曽谷周辺の国有林が、実質の御杣山になっているという。

 

 ここでは、式年遷宮のために、樹齢200年から300年の用材を安定的に供給すべく、計画的なヒノキの植林が行われているという。ヒノキでは、この木曽に生息している、樹齢450年のものが最高齢とあるが(ヒノキ - Wikipedia)、一方、他でも、樹齢1000年と言われるヒノキもあるようだ。(全国一の巨樹の里に立つ倉沢のヒノキ ) 

 この地域は、長野県木曽郡上松町、王滝村、大桑村、と岐阜県中津川市の可子母・付知町などに跨る、阿寺山地にあり、約8000haの広さがあるという。(神宮式年遷宮 - Wikipedia 用材の項) 現在の国有林は、林野庁が管理している訳だが、中部森林管理局のデータでは、木曽谷流域全体の樹木の種類は以下のようだ。  この地域の人口林、天然林とも、木曽5木などの樹種が多く、中でも、ほぼ半数程が、ヒノキと言う。(中部森林管理局/管内の概況) 

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 この地域の山林は、江戸時代には、ヒノキの盗伐防止のため、不入山(ふにゅうさん)として、厳しく、立ち入りを規制したようだ。

以前、NHK名古屋放送局が制作したTV番組で、許可を得てこの地域に入った担当の内田アナが、見事なヒノキの樹林の様子等をレポートしたのを見たことがある。(NHK名古屋「金とく 不入山〜ヒノキの森 知られざる発見〜」

その時の山の名は、長野と岐阜の県境にある、井出ノ小路山(1806m)とあったが、この辺りが、ヒノキ樹林の中心なのだろうか。

 

 木曽のヒノキには、一寸した思い出がある。 

以前、木曽谷周辺に知人とドライブ旅行して、旧中山道の宿場町 奈良井宿を訪れた時だ。 あちこちの店先に、切り株で作った腰かけ用の椅子が、置いてあった。自分でも、自宅の庭の椅子として、予てから欲しかったもので、店の人に聞いたら、町並みのはずれにある、営林署(支所?)に行ってみたら、と教えてくれた。  

 早速そこへ行ったら、いい香りのするヒノキの切り株が、無造作に沢山置いてあり、そこで、5個、格安の値で分けて貰った。 車には積みきれず、自分達で荷造りをして、ヤマト便で届けて貰ったのである。 

この切り株、ヒノキの用材を伐り出した時に出来たものだろうが、今にして思えば、今回の遷宮に関連したヒノキ材の切り株だったかもしれない。

 我が家のこの切り株椅子、暫くは健在だったが、素のままで風雨に晒したこともあって、ぼろぼろになり、少し前に処分してしまったことである。

 

 

 一方、伊勢神宮の周辺の、前述した三山を、再び、御杣山とすべく、大正時代の末期(1925年)から、これらの山で、計画的にヒノキの植林を行っているようだ。

 遷宮の用材として使えるようになるまでには、おおむね、200年以上かかるため、今から110年程後となる、2120年頃になって、三山が、再び御杣山となれる訳だ。用途によっては、400年の用材も必要のようで、これだと、2320年頃になるという、遠大な時間軸である。(神宮備林 - Wikipedia

 

 何事にもスピードが重視される現代にあっては、200年以上もかけて、計画的に木を育てるというのは、我慢できない程の、まどろっこしさ、かったるさ、でもあろうか。

 政治の世界等では、「国家100年の計」などと大層に言われるが、実際は、ついつい、一般受けのする目先の判断をしてしまいがちで、言うは易いが、実行は難しいことだ。

又、中国に、「100年河清を俟つ」という言葉がある。黄河の水はいくら経っても澄む(清くなる)事が無いようで、待っていても望みが実現しない物事の譬えになっている。

 これらに対して、我が国には、信仰や国家的な事業として裏付けられているとは言え、希望を持ちながら、200年以上に亘ってヒノキを育てあげるという、伝統的な心意気と山林文化があることを、嬉しく、誇りに思えるのである。 

 往時の山家(やまが)では、子供が誕生すると木を植え、その子が成人した暁に、それを使って家を建てたり、嫁入りする時の家財を調達する習慣があったという。 精々、20年程先を見越した、ささやかな投資なのだが、おおらかな強(したた)かさ、とでも言いたい、生活の知恵だろうか。


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