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日本の安全保障  1

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2015年9月14日(月)  日本の安全保障 1 

 

 先日投稿した下記記事で、

     今年の終戦記念日  1 (2015/8/28)

     今年の終戦記念日  2 (2015/9/10)

その1では、今年の終戦記念日に当たって、総理から公表された、「戦後70年談話」について取り上げ、その中で、特に、近隣の、朝鮮・韓国、中国・台湾について話題としたところだ。

 その2では、中国の軍事パレードについて触れた後、核兵器を巡る話題と、靖国神社参拝問題を取り上げた。 

 これらと関連が深く、これからの日本の方向を考える際に、ポイントとなる安全保障に関わる事項を中心に、扱い難い政治的なテーマだが自分なりに考えていくこととし、本稿では、現下の安保法案の話題をとりあげ、今回の安保法案群と憲法や、国連憲章との関係を中心に見てみたい。 

 

○現行憲法下での安全保障

 日本は終戦後、連合国(米軍)の占領下で、荒廃から立ちあがり、新たな憲法を制定し、政治・経済・国民生活を立て直しながら、サンフランシスコ平和条約の締結等、諸外国との関係回復を進めるとともに、国連にも加盟し、安全保障の面では、大きく揺れる事もあったが、自衛隊の創設や、日米安保条約の締結などが行われてきた。 

 下図は、終戦の2年後(1947年)に施行された、新憲法の理念である、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3本柱を表したものだ。(ネット画像)          

             

  3項目とも、現時点でみると、今更の感もあるのだが、旧憲法(大日本帝国憲法)と対比すると、その意味が理解できるだろうか。(下図)

第1、第2の柱は、形の上では天皇に権限を集中させた旧憲法から、象徴天皇として国民に主権を移行し、国民の基本的人権を保障するという、大きな違いがあり、3番目の平和主義は、旧憲法での軍備と兵役を止めて、戦争を放棄するとした、大変更なのである。 

 

 目下、国会では、日本の安全保障を巡る論議が進められている。政府の言うように、国際環境や、周辺状況の変化に合わせて、国の安全を確保していくことは、当然の事で、同盟国との連携も必要というのは、多くの人が認めるところだろう。

だが、この必要性を具現化する方法と、憲法で許されている範囲とを整合させる(最近話題となった失言の、「法的安定性を保つ」)ことは、立憲法治国家である以上、当然の基本中の基本要件なのだ。 

 

○憲法9条

◇戦争の放棄

ポイントは、現行憲法9条だが、以下の様になっている。

 

第2章 戦争の放棄

〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕

第9条日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 改めて、現憲法9条を、日本語として読んでみると、可なり分りやすい文章と言え、以下の、①~④のように理解できるだろうか。 

  ①正義と秩序を基調とする国際平和を→希求し

  ②国権の発動である戦争、武力による威嚇、武力の行使は

                   ―国際紛争を解決する手段としては→永久に放棄し

  ③陸海空軍その他の戦力は→保持しない

  ④国の交戦権は→認めない 

 

  このように、素直に読めば、“戦争を永久に放棄し、戦力は保持しない”、という、丸腰の平和主義を謳っているということは、大方の人が理解できることで、日本の戦後は、この状態からスタートしている。

 世界中で、憲法の中で、何らかの平和条項を持つ国は多いが、戦力となる軍隊を持たない事を、憲法に明記した国は、日本だけのようだ。(【憲法9条】平和主義憲法を持つのは日本だけなの?

永世中立の国 スイスにも、憲法で規定された、強力な軍隊があることは周知の事実だ。

 

◇但し書きなど

  ここで、原文の英語に遡っていくつか調べてみたい。先ず、②だが、英文は以下のようだ。(さりはま ? 日本国憲法を原文の英語から再読する部屋 のコメント

the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.

  ここに出てくる、war(戦争)、force (武力)の定義と、国権の発動である戦争、武力による威嚇、武力の行使、の下りは、そのまま理解できる。問題は、as means of settling international disputes.だ。 これは、武力に関して、国際紛争を解決する手段としては、という、制限条件を付けたものだ。 換言すれば、自衛手段としては、制限されない、とも解釈できる。

  一方、④だが、英文では、以下だ。

        The right of belligerency of the state will not be recognized.

        国の交戦権は、これを認めない。

  普段聞き慣れない、交戦権という言葉だが、原文の“belligerency ”は、戦闘状態にあること、という意味のようで、つまり、国の交戦権となるようだ。

  言い換えれば、交戦権とは、敵に対する加害行為である戦闘をなしうる権利(広辞苑)、戦闘で敵を殺傷しても罪にならない権利、と理解できようか。平たく言えば、戦う権利、喧嘩する権利で、目には目を、歯には歯を、ということで、西洋的な自己主張ともいえる。

  このような「権利」が、国に元々あること自体も、やや理解に苦しむところだが、列強が、世界進出を目指して、派手に戦い合った、往時の名残のようにも見える。

 

  憲法は、国家(の活動・行動)を規制する「規範」であり、主語である、という憲法の位置づけから、国家の交戦権は、憲法によって、否認されていると言える。

  ここで新たに出て来る疑問だが、この交戦権と自衛権とは、どの様な関係になるのだろうか。交戦権は否認されても、自衛権は許容されていると理解できるかな?

 

○国連憲章では

  ここで、国連憲章を見てみたい。

国連憲章は、戦後間もなくの、1945年に調印・批准された国際条約で、現代世界での最重要の条約と言え、国際関連活動の基本となる憲法に当たるものであろう。 

  日本は、1952年のサンフランシスコ平和条約(単独講和)の調印後、ようやく、1956年になって、80番目に、国連加盟を認められている。  1933に、前身の国際連盟を脱退して、約23年後となる。

 

  今回の安保法案の論議の中で、よく引き合いに出されるのは、国連憲章の中の、第51条だが、以下のようになっている。

“この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。

この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。”

  筆者が下線を付した部分では、個別的又は、集団的自衛権は、国連加盟国の固有の権利とされている。自衛権は、国の安全保障上の固有の権利と認めている訳で、至極当然と言えよう。

  上述のように、国連憲章では、国連加盟国の固有の権利として、個別的・集団的自衛権は認められているのだが、国際連盟時代の連盟規約には、このような自衛権の条項はなかったようで、国連憲章制定時に、色んな論議があったようだ。

 

 

○日本国憲法と国連憲章と 

   前述のように、大戦までの日本の歩んだ道の反省から生まれた現憲法だから、憲法9条の文言では、集団的自衛権はおろか、個別的自衛権としても、戦力を保持しないとしている(②)、と理解するのが、自然な日本語の理解だろうか。 

しかし、上述のように、国際紛争の解決手段として使わない、との条件つきで、自衛手段まで放棄してはいない、と解釈できる余地もあるだろう。

でも、戦力を持たずに(③)、どうやって自衛し国を守るのだろうか、素朴な疑問が湧く。

 

  終戦直後の1945年に発効した国連憲章の事は、日本を占領した国連軍(米国)は100も承知だった筈だが、そんな状況下で、何故、1947年に、遅れて施行された、現憲法の表現になったのだろうか。

このような超理想主義的な憲法を、制定する事を強要されたのか、或いは、国として選択したのか、色んな経緯があるようだが、大いに興味のある所だ。

  

  終戦後、朝鮮戦争の勃発で、日本の米軍が不在となる事となり、1950年、GHQの依頼を受けて、国土の防衛という観点から、警察力を補うものとして、「警察予備隊」という、実質的な軍隊の創設が行われた。この組織は、その後、「保安隊」、「自衛隊」へと変貌していくこととなる。 

この過程で、先述の、憲法9条の、陸海空他の戦力は保持しない、という規定に違反するのでは、という批判の中で、憲法は変えずにそのままとして、「憲法解釈」という、言ってみれば、裏技(屁理屈?)で事を進めてきたのである。

  国連憲章等で、国際法上で固有の権利として、自衛権は認められているので、現憲法には明記されていない自衛権も認められ、このための戦力も保持できるとし、現自衛隊に至るまで、合憲だとして、これまでの歴代の内閣(内閣法制局)で、憲法解釈が積み重ねられ踏襲されてきた。

  憲法に違反するのではないか、という批判的な世論の下にあって、警察予備隊の創設から、自衛隊へと進展させ、国際海外活動も、PKO活動への参加や、艦船の後方支援や、シーレーンの確保等を実行し、防衛庁から防衛省に昇格させる、などが行われてきた。 ただ、現憲法で許容されるのは、個別的自衛権までというのが、これまで長年守られて来た憲法解釈だが、その最後の一線も、今回、一気に越えて、集団的自衛権も許容されているとなり、ついに来るところまできた、と言う事だろうか。 

 

  詳細は省略するが、現政府は、S34年の最高栽砂川判決を根拠として、集団的自衛権も合憲だ、としているが、砂川判決は、米軍基地の拡張に反対して訴訟となったもののようだが、合憲とする根拠にはならないという見解もあるようだ。(違憲の司法判断については後述) 

 

  最近の政治の状況は、憲法解釈の上を行く、先ず国連憲章ありきのようで、個別的・集団的自衛権は固有の権利として認められているから、と言う事で、憲法の表現は軽視され、国連憲章が優先されているようで、法治国家として、あるまじき事態である。

また、安全保障に関わる諸活動の必要性の論議と、その活動の憲法上での合憲性(法的安定性)との関連がゴチャゴチャで、必要ならば何でもできる、といった空気さえあるのも、ゆゆしき事態だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 


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