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日本スペイン交流400周年  1

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2013年6月26日(水) 日本スペイン交流400周年 1

 

 

 仙台藩主 伊達政宗が、徳川幕府の許可を得て、イスパニア・ローマに派遣した慶長遣欧使節団が、日本を出発したのが、江戸初期の、慶長18年(西暦1613年)9月15日(旧歴)(新暦では10月28日)と言われており、この大イベントが実行されて以降、2013年の今年が、丁度400年の節目に当たるという。

 このことから、日本とスペインが交流して400年になると言うことで、両国の共同事業として、今年から来年にかけて、多彩な行事が行われるようだ。(日本スペイン交流400周年公式サイト )

 

 先だっての6月中旬には、記念行事の開幕のセレモニーに出席するため、日本の皇太子がスペインを訪問し、その時の様子が、テレビ等でも取り上げられている。

スペインと言う国については、日本としても、自分にとっても、これまで、色んな関わりがあるが、その中の幾つかのトピックスを取り上げることとしたい。

以下では、この国の呼称として、現在一般的に使われている英語式のスペインと、原語に近く以前の呼称でもある、イスパニアとしているところもある。 

 仙台とは縁の深い筆者でもあり、まず本稿では、慶長遣欧使節と、それに関連する事項を、話題としたい。

 

 

 慶長遣欧使節は、宣教師ソテロを正使とし、仙台藩の家臣の支倉常長を責任者として、180人余の規模で派遣されたようだ。

 

○地球規模の航路

 先ず驚くのは、地球規模で使節団を派遣するという、スケールの大きさと、航路の長大さである。(図は、日本スペイン交流400周年公式サイト から引用)

慶長遣欧使節の航路 

 現在の宮城県石巻市の月の浦を、10月末に出港して、太平洋を渡り、翌年1月末近く、現在のメキシコのアカプルコに着く。そこから、当時の強大なイスパニアが、新たに手に入れた植民地である、ノビスパニア(ヌエバ・イスパニア)を支配する中心都市であった、メキシコシティーを経由し、陸路を、ベラクルスまで進んで、メキシコ湾に出た。言うまでも無く、当時は、パナマ運河は無かった。 

 続く海路は、スペイン艦隊の艦船に便乗し、日本を出発してから、ほぼ、1年後の、1614年の10月初に、イスパニアに渡っている。1613〜14年当時は、コロンブスのアメリカ大陸発見(1492年)、マゼラン隊の世界一周(1522年)などからは、かなり経過しているので、航路自体はそんなに驚くことは無いが、でも、日本にとっては、東アジアの各国を経由する近海航路は経験済ではあっても、この様な陸地の見えない大海原を渡る、3か月程の太平洋の航海は、大変な冒険だったろう。我が国初の快挙と言えるであろうか。

 このようなことが実現出来たのは、勿論、日本の力ではなく、当時、世界を制覇し支配していたイスパニアの、強大さと、航海術の凄さを思い知らされるばかりである。

黒船来航で大騒ぎしたり、咸臨丸がアメリカに渡る等は、これから200年以上も後の、江戸末期から明治初期にかけての事である。

 

 幕府の許可は得ているものの、遣欧使節を派遣した伊達政宗の力量や気概の程が推し量られるのだが、その意図や思惑は何だったのだろうか。 

当時の国内では、世界の情勢や、世界の中での、スペインやポルトガルの、位置づけについて、どのくらいの認識があったのだろうか。中南米を征服しているスペインが、アジアのフィリピン迄進出して来ていることは分っていたと思われる。  

 

  

○長期間の旅程

 スペインに到着後、一行が辿った欧州での旅程は、下図の様だ。(日本スペイン交流400周年公式サイト慶長遣欧使節 - Wikipedia 等から引用)

欧州での旅程

 メキシコからの船が最初にイスパニアに着いた場所は、上図にあるように、サン・ルーカル・デ・バラメダ(San Lucar de Barrameda)と言われるが、この場所が、現在のスペインの地図にも載っているのを探し当て、自分も、使節に加わって旅をしている気分である。

又、使節団が、旅装を整えたという、コリア・デル・リオ(Coria Del Rio)は、上図にもあるが、セビリヤの近郊の現存している町である。

 

 使節団一行は、コルドバ、トレド等を通って、首都マドリードに入り、当時のイスパニア帝国の国王である、フェリペ3世に謁見している。

その後一行は、陸路を進み、バルセロナから、船でローマまで行き、日本を出て、ほぼ2年後の、1615年11月初めに、ローマ教皇パウロ5世に謁見し、名誉市民であるとして、ローマ市民権証書も授与されている。 当時の、イスパニア帝国・国王とローマ教皇との関係も知りたいところだ。

 イスパニアやローマで、当時としては、世界の最先端の繁栄振りや、文物を目にした使節団一行の驚きは、どんなだったのだろうか。当時の日記や記録等が残されていれば、見てみたいものだ。 

 

 一行は、1616年1月初め、ローマを発って帰路に就き、往路とほぼ同じルートを戻った。

 使節団が、旅の往路、復路で滞在したと言う、コリア・デル・リオでは、使節団に関係していた現地人や、滞在している間に現地人と懇ろになって残留した日本人もいたようだ。

この街には、その子孫・末裔と言われ、Japanを意味する、ハポン(Japon)姓の人達が、今も、600人もいるという。

その地には、支倉常長の末裔に当たる当主が、近年寄贈したという、常長の銅像が建っているようで、末裔の当主が、最近、羽織裃の、ちょん髷姿で訪れたり、今回の記念行事の一環として、皇太子が、この地を訪れたりしているようだ。

 

 スペインを離れた後、大西洋を戻り、太平洋ではフィリピンを経由して帰国している。

帰国したのは、何と、元和6年8月24日(新暦で1620年9月20日)という。 1613年に日本を出てから、7年強の年月が経過している。 船旅と陸路を組み合わせた当時の行程としては、数年掛かるのは当然だが、でも、7年とは、かなりの年月であろうか。

 

 徳川幕府のキリシタン政策が強められる中で、帰国しにくくなっていったのかも知れず、同行の宣教師のソテロは、悲しいことに、帰国後、処刑されたとある。ローマで受洗した常長も、帰国後間もなく、失意の内に亡くなったようだ。

当時は、外国と日本との関係、国内でのキリスト教の扱い、幕府と諸藩の関係等で、徳川幕府や、伊達藩等の思惑が渦巻いていたようだ。

 歴史に残る快挙を成し遂げた使節団だが、一方で、彼らは捨て駒として単に利用されただけ、と言った見方もあり、帰国してみたら浦島太郎になっていた、と言うのは、気の毒である。(Amazon.co.jp: 支倉常長 慶長遣欧使節の真相―肖像画に秘められた実像: 大泉 光一: 本

 

 

○国連のユネスコでは、

   ・世界遺産(自然遺産、文化遺産、複合遺産)

   ・無形文化遺産

   ・世界の記憶(通称 世界記憶遺産)

の、三大遺産事業が行われているが、世界遺産以外については、殆ど知られてはいない(筆者を含む)。 それぞれの事業で、日本からも、多くの物件が登録されているようだ。

 周知のように、この中の世界文化遺産として、富士山が、先日の22日夕刻、正式に登録されたことで、国内には、お祝いムードが漂っているところだ。 

 

 上記にある、世界記憶遺産としては、

   ・アンネフランクの日記 の原本

   ・ベ―トーベンの第九交響曲 の直筆楽譜

など、世界の著名な記念物300点程が、登録されているという。(【世界の記憶】ユネスコ・世界記憶遺産の一覧 世界の記憶 - Wikipedia

 

 所で、慶長遣欧使節団が持ち帰ったと言う文物・遺品は、今も、仙台市博物館に所蔵されているようだが、その中で、下図の

              

「ローマ市公民権証書」  「支倉常長像」    「ローマ教皇パウロ五世像」 

3点が、この6月18日に、韓国の光州で開催された国際諮問委員会で、ユネスコの世界記憶遺産として登録された、という嬉しいニュースである。日本とスペインから、共同で申請していたようだ。(上図はネット画像より) 

 前述のように、公民権証書は、使節団が訪問したローマで、教皇から授与されたものと言われ、「支倉常長像」、「ローマ教皇パウロ五世像」は、現地で描かれたものを持ち帰ったものだろう。支倉常長像は、日本最古の肖像画とも言われる。

いずれにしても、これらが、行路の途中は勿論の事、この現代まで、大事に受け継がれてきていることに、歴史の重みを感じるばかりである。 

 

 

○余談になるが、仙台銘菓に「支倉焼き」(はせくらやき)というのがある。仙台の老舗菓子舗の、洋風の感じがある洒落た和菓子だが、自分が好きな菓子ベストスリーに当たるものだ。(ベストワン、ベストツウについては、今回は触れない)

小豆餡でなく、白い餡の入った焼き菓子で、さくさくした感じで、余り甘くない所が気に入っている。

   支倉焼き 

 以前は、仙台市内の本店でしか買えなかったのだが、最近は、市内の他の場所でも手に入るようになった。仙台に住む親戚・知人などが上京する時は、これを御土産に頼むことにしている。

当初、支倉常長が、ヨーロッパから菓子職人を連れ帰って作らせたのかも、と思ったが、そうではなく、著名な人物の名前を借りて、ネーミングを支倉焼きとしたようだ。 

 でも、その名に恥じない、他には無い素晴らしい菓子である。

 

 

 

 

 

 


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