2022年2月1日(火) 佐渡金山 世界文化遺産推薦へ
〇世界遺産への推薦
日本から、今年の世界遺産委員会に、佐渡金山関連の案件を推薦するという政府方針が、慌ただしく決まったようで、今朝の閣議で決まったようだ
今日2月1日が、ギリギリの提出締め切りで、その後、諮問機関である「イコモス」の現地調査を経て、23年7月頃に開催される、世界遺産委員会で審議される予定だ。
世界遺産委員会に提案するため、あらかじめ、平成24年(2012年)に、文化遺産の「佐渡金山の遺跡群」として、暫定リストに記載されている。次項にある登録済の、石見銀山の案件と統合したらという動きがあったようだが、統合せず、佐渡金山単独となっている。
〇日本の登録の歴史
これまでの、日本からの世界遺産登録案件は、以下だ。
自然遺産 5件:最近では、2021年 奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島(ヤンバルの自然など)
文化遺産 20件:最近では、2021年 北海道、北東北の縄文遺跡群(山内丸山遺跡など)
今回の案件が登録されれば、全体で26件目となり、文化遺産としては、21件目となる。
〇佐渡金山の歴史と現状
*佐渡の主な鉱山の遺跡
下図にあるように、外周280kmの佐渡が島で、確認されているものだけで、約30の鉱山の遺跡があるという。
主要遺跡は、図にある、相川金銀山、鶴子銀山、西三川砂金山、新穂銀山と言われる。
下図は、他のサイトにあるものだが、新穂銀山が表示されておらず、西三川砂金山の位置
が、やや異なるようだ。
図の、相川金銀山の中心にある、シンボル的な存在が、道遊坑という。 下図の山は、道遊の割戸(どうゆうのわりと)と呼ばれる、採掘跡である。手掘りで、山頂から人間が掘り進んで出来た割れ目と言われ、幅が30m、深さが74mもあるようだ。
*推薦に当たっての、国内で必要となる指定は以下のようだ。
重文指定 道遊坑 高任坑
史跡指定 佐渡金銀山遺跡として指定(道遊割戸など)
*黄金の国ジパング伝説
日本は、マルコポーロの東方見聞録(15世紀中頃に出版)で、黄金の国ジパングと、紹介されていて、これにより、ヨーロッパでは、日本は素晴らしい国と信じる人が多かったようだ。しかし彼は、日本には来ておらず、中国等で耳にした伝聞を記録したものという。(東方見聞録 - Wikipedia.html を参照)
室町時代に日本を訪れたヨーロッパ人たちは、金もさることながら、銀が豊富な国であることに驚いたという。日本国内各地で、石見銀山、佐渡金銀山、生野銀山などが開発されたようだ。この銀を材料に、ポルトガルの商人が、中国との間を仲介して稼いだようだ。
日本の銀は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、年間10数万kgに達したと言われ、実に世界の産出量の3分の1を占めたと言われている。
(以上 石見銀山(島根)と佐渡金銀山(新潟)にまつわる歴史伝承、ジパング(黄金の国、東方見聞録)、銀の国(石見銀山、世界遺産)、道遊の割戸(佐渡金山、相川、佐渡島)、とは(2010.10.14)_ 歴史散歩とサイエンスの話題.html を参照)
ネット情報によれば、江戸時代初期には、下記の三大銀山というものがあったようだ。佐渡銀山(現 新潟)、生野銀山(現 兵庫)、延沢銀山(現 山形)
江戸時代初期の銀の生産量は、年間160~190トンといわれ、世界の生産量の3分の1を占めたといわれ、生産量は往時よりは少なくなったものの、銀の国だったようだ。
*岩見銀山の精錬技術の継承
岩見銀山で、天保年間、銀の精練技術である「灰吹法」を考案している。
金や銀の鉱石を、鉛とともに焼いて鉛合金を作り、それに空気を吹き込んで、金属鉛を酸化鉛(灰)に変え、分離した金や銀を、灰の中から取り出す方法である。
日本や東アジアを代表する、世界最大級の銀山に発展したようだ。その後衰退し、大正13年には、休山となっている。
でも灰吹法の技術は、技術者たちによって、佐渡金銀山、生野銀山に伝承されている。
また、水銀を使った、水銀アマルガム法も試みられたが、成功しなかったようだ。
鉛を使う灰吹法も、水銀を使う水銀アマルガム法も、ともに、重金属である鉛、水銀を使うことから、人体に対する中毒症状という、危険を伴うものだ。
現代の金、銀の精錬では、これらは使用されず、電解精錬法や、青化法などを使っているようだ。(灰吹法 - Wikipedia.html 参照)
〇登録に対する韓国の反発
佐渡金山関係の世界遺産への推薦にあたっては、韓国からの反発が予想されている。
日本の植民地であった韓国から労働者を集め、強制労働を行わせたというものだ。先の、明治期の遺産の登録の時も、同様の状況から、韓国から強い反発があった。
赤旗の記事では、強制労働の実態を正しく認めよ、と主張している。
(【しんぶん赤旗】佐渡金山、戦時中の朝鮮人強制労働の事実を認めよ _ まとめるも情報局.html)
植民地支配は、江戸時代は無関係で、明治以降~終戦までだ。
高市政調会長は、佐渡金山は、江戸時代に露天掘りを行ったもので、韓国人の強制労働は時代が違う、と、苦しい釈明をしている。
でも、江戸の初期から戦後の平成初期までの、約400年間の佐渡金山の歴史の中で、明治以降~終戦までの期間は、無関係とはいえないようで、事実は事実として認める姿勢が必要だろう。 韓国のマスコミ(東亜日報)によれば、佐渡金山で、韓国人が働いていたという記事があるようで、賃金を支払わず、強制労働をさせたようにも受け取れる印象である。
〇佐渡に因む話題
*著名人の島流し先
佐渡は、船でしか行けなかった時代は、長い間、往来が困難な島で、著名人の島流し先とされた。歴史に残る著名人は、日蓮宗の日蓮上人であり、花伝書などで知られる、世阿弥であろう。詳細については、ここでは省略する。
*トキの保護活動
佐渡と言えば思い浮かぶのは、トキである。一時絶滅し、中国から譲ってもらい復活し、保護運動が功を奏しトキが棲む地域となっている。
往時は、トキや、コウノトリや、サギなど、各地の里山、人間と共生していたのだが、人間社会の変化についていけず、減少していった。最後まで佐渡に残ったのはなぜだろうか?
トキは、国鳥ではないが、学名が、nipponia nipponで、素晴らしい名前である。豊岡市のコウノトリなどとともに、大事にしたいものだ。
*新婚旅行
個人的な思い出だが、筆者が新婚旅行で行ったのが佐渡である。新潟から、連絡船で佐渡の両津にわたり、そこから、相川経由で、尖閣湾まで行った記憶がある。佐渡の金山の廃鉱跡も行ったと思われるが、記憶はない。両津で観た和太鼓演奏での、色んな太鼓の響き会う音が今でも記憶に残っている。(おんでこ座の名前は憶えている!)
新潟から、東京に帰ってきたが、この時の、在来線特急の名前が、「とき」 である。
下図は、在来線の特急とき号で、新幹線でも、現在、復活しているようだ。
(とき (列車) - Wikipedia.html より引用)