2019年5月16(木) 平成から令和へ 3-2
平成から令和への移行も重なった超大型連休も、5月6日の振替休日で終わりで、世は、通常の活動にほぼ戻っただろうか。
これまで、当ブログに、以下の記事を投稿している。
平成から令和へ 1 (2019/4/30)
平成から令和へ 2 (2019/5/5)
平成から令和へ 3-1 (2019/5/9)
1では、天皇の代替わりに伴うさし向きの行事と10連休、祝休日に関するワークライフバランスの話題を、2では、天皇と元号の歴史等についての話題を、取り上げて来たところだ。 3-1では、令和の、漢字標記と、書体、ローマ字表記について、触れている。
そして、4月1日に新元号が決まり、公布され、5月1日に施行された。施行とともに、新天皇が即位(践祚)し、新たな令和の時代がはじまって、まだ半月程である。
本稿では、本題である、令和の意味や典拠等について、取り上げることとしたい。
●令和の選択
天皇の生前退位と日程が決まって以降、それに向けて着実な準備が進められてきた。
天皇と元号とを対応させる原則から、新たな元号を決める必要があり、 下図に示すように、政府から、複数の学識者に作成を委嘱したようだ。 委嘱先は、明かさない原則だが、マスコミ情報では、国文学 中西弘氏、中国文学 石川忠久氏、東洋史 池田温氏の3名と言われている。
委嘱者から提案された元号案が、関係筋で下記の6案に絞り込まれて、4月1日に開催された、上図の各界の有識者による「元号に関する懇談会」に提案されたようだ。
国書から3: 令和(れいわ) 英弘(えいこう) 久化(きゅうか)
漢籍から3: 広至(こうし) 万和(ばんな) 万保(ばんぽう)
会議での状況は、明確にはわからないが、令和の支持が多かったという。
そして、同日開かれた閣議等を経て、官房長官から令和が発表され、5月1日から施行されることとなった。令和を提案したのは、万葉学者の中西弘氏と言われているが、明かさない原則になっている。元号は、これまで、漢籍から選択するのが慣わしであったが、漢籍でなく国書に基づく元号は、今回が初めてと言われる。
4月30日の夜は、年末のようにカウントダウンがあり、新しい時代である、令和に期待する盛り上がりがあり、このところ、各方面で「令和初」が多い一方、様々な出来事があった、平成を振り返る空気もある。
皇室の行事等の動きも、国民にも良く見えていて、5月4日の一般参賀の人出は大変なもので、国民の皇室に対する深い思いが感じられる。
又、13日には、秋の大嘗祭に使う米の生産地を選ぶ、「斎田点定の儀」(さいでんてんていのぎ)が皇居内で行われ、アオウミガメの甲羅を使った伝統的な亀卜(きぼく占い)によって、西の京都府と、東の栃木県が選ばれたようで、両県の知事と県民は大変な喜びという。
●令の漢字の印象
初めて「令和」と聞いた時は、特に、令は、変な字だナ、というのが率直な印象だ。
お決まりの手持ちの漢和辞典で調べると、令は
オキテ ノリ オサ
とあり、
命令 辞令 指令 令状 県令
など、厳格で、硬~い印象があるのだ。
でも、
ヨシ
という意味もあり、他人の家族の尊称として、
令息 令嬢 令夫人
などと使われ、救われる思いであり、
令月 (よい月 和漢朗詠集)
もある、
一方
巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょく すくなしじん)
という、印象の悪い熟語も思い出されるがーー 。
●令和の典拠
「令和」の典拠は、『万葉集』の巻五の、梅花の歌三十二首の序文(「梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序」)である。
以下の図左は、ネットで見つけた、序文の原文で、漢文で書かれているが、返り点などが、やや不鮮明である。諸本のどれからのものか、などは不明である。図右は後述。
序文全体 令和関連(□ □)
以下は、この序文の原文の説明で、万葉集入門:万葉集巻五(巻五の口語訳と解説を完全収録)から引用している。赤字、緑字は筆者。
(書き下し文)
梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序
天平二年正月十三日に、師(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。
加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きにがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きにがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(かづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら放(ひしきまま)にし、快然と自(みづか)ら足る。若し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)を述(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今(いま)とそれ何そ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。
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(現代文)
天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。時に、初春の好き月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。
しかのみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。庭には蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれがら満ち足りている。これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。
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(解説)
この漢詩風の一文は、梅花の歌三十二首の前につけられた序で、書き手は不明ですがおそらくは山上憶良(やまのうへのおくら)の作かと思われます。
その内容によると、天平二年正月十三日に大宰府の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で梅の花を愛でる宴が催されたとあります。(筆者註:天平は奈良時代初期)
このころ梅は大陸からもたらされたものとして非常に珍しい植物だったようですね。
当時、大宰府は外国との交流の窓口でもあったのでこのような国内に無い植物や新しい文化がいち早く持ち込まれる場所でもありました。
この序では、前半でそんな外来の梅を愛でる宴での梅の華やかな様子を記し、ついで梅を取り巻く周囲の景色を描写し、一座の人々の和やかな様を伝えています。
そして、中国にも多くの落梅の詩があるように、「この庭の梅を歌に詠もうではないか」と、序を結んでいます。
我々からすると昔の人である旅人たちが、中国の古詩を念頭にして「いにしへと現在と何の違いがあろう」と記しているのも面白いところですよね。
この後つづく三十二首の歌は、座の人々が四群に分かれて八首ずつ順に詠んだものであり、各々円座で回し詠みしたものとなっています。
後の世の連歌の原型とも取れる(連歌と違いここでは一人が一首を詠んでいますが)ような共同作業的雰囲気も感じられ、当時の筑紫歌壇の華やかさが最もよく感じられる一群の歌と言えるでしょう。
● 政府の思い入れ
安倍晋三首相は、談話の中で、新元号「令和」に込めた意味について、
「悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく、厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込めた」
等と語っている。
国土、国柄を、やや、美化しすぎたきらいはあるが、新元号に込められた願いは明らかだ。ただ、梅だけを強調し、蘭には触れなかった理由は何だろうか。
● 漢詩風
前出の縦書きの原文(図左)から、令和に関連深い部分を、赤色枠(季節感)、緑色枠(梅と蘭)で抜き出し(図右)、横書きに直し、それを、四言絶句の漢詩風にして、覚えやすくしてみたものを、以下に示す。
四言絶句 初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
音読み しょしゅんれいげつ7 きしゅくふうわ6 ばいひきょうぜんのこ9 らんくんはいごのこう10
(数字は語数)
訓読み しょしゅんのれいげつにして、きよくかぜやわらぎ、
うめはきょうぜんのこをひらき、らんははいごのこうをかおらす。
ネットを見ていたら、今人気の御朱印帳の、あまたの画像の中に、令和の典拠を示す、この漢詩風文言が印刷されているもの(下左浅草神社、右 菊田神社)がみつかり、嬉しくなったことだ。