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日本スペイン交流400周年   7

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2013年7月23日(火) 日本スペイン交流400周年  7

 

 

 江戸初期に、スペインとローマに慶長遣欧使節が派遣されて、今年が、丁度400年の記念の年に当たると言うことで、当ブログでは、下記記事

     日本スペイン交流400周年  1 (2013/6/26)

以降、2、3、4、5 と続けて投稿して来た。

 これらの中で、慶長遣欧使節に関連する話題、スペインの大まかな歴史、スペインの現状についての概況と文化的側面、多言語国家と国際公用語、ユニークな世界遺産巡り、について取り上げている。

 続く前稿の6では、スペイン旅行の思い出に関する前半の話題を取り上げたが、本稿では、後半の話題を取り上げることとしたい。

 

 

●古都トレドの見物

 初めてスペインに行った際、スペインについては、大まかな知識しか持っておらず、物の本には、古都のトレドは必見とあるので、兎も角、行ってみることとした。

 

 ここで、見物に出かける前に、最近仕入れた情報だが、トレドの状況を整理しておく。

以前の記事で触れているが、現在のスペインの中心は、カスティーリャ地方と言われ、スペイン語やスペイン人は、カスティーリャ地方が標準と言われている。 カスティーリャ地方は、順次、カスティーリャー・ラ・マンチャ州、カスティーリャ・イ・レオン州、マドリード州の、3つの自治州に再編されたようだが、この地域の特別州の様な存在が、現在の首都のあるマドリード州であろうか。 マドリードは、人口は約300万人を越えるスペイン一の大都市である。

 一方、トレドは、現在、カスティーリャ・ラ・マンチャ州の州都だが、人口は、何と約6万人と小規模だ。

 又、カスティーリャ・イ・レオン州の州都、バヤドリッドは、人口30万人を超える中核都市である。 

 

 カスティーリャ王国(首都トレド)とアラゴン王国(首都サラゴサ)が連合して、スペイン王国の融合が進み、スペインの首都(宮廷)がマドリードに移されたのは、1651年と言われ、それ以前の長い間、トレドはスペインの政治の中心だった様だ。

 トレドは、1986年に、旧市街全体が、トレド歴史地区として、世界文化遺産に登録されており、日本の奈良市と姉妹都市の関係にあるようだ。(日本の世界文化遺産登録は、1993年の法隆寺、姫路城が第1号、古都奈良は1998年)

 

 

 さて、トレド見物だが、マドリードのホテルに頼んで、トレド見物のバスを申し込んで貰ったが、ホテルに立ち寄ってピックアップしてくれるものだったので気楽であった。

トレドは、マドリードの近郊の60km程の距離にあり、バスで、大した時間は掛からなかった。(今は、新幹線も走っているようだ。)

 バスのガイドは、スペイン語と英語で案内してくれたが、日本人は自分一人とあって、Mr.Tokyoなどと声をかけてくれた。今は日本語のツアーもあるようだ。

 

 タホ川に囲まれたトレドの遠望は、下図のように素晴らしく、今でも、目に焼き付いている。(ネット画像より)

下図で、中央付近に見える尖塔は、トレドのシンボルの大聖堂(カテドラル)で、その右側の高台に在る建物は、古代の王城、アルカサル(Alcazar)だ。

街の三方を囲むように巡っている川は、タホ川で、自然の要塞を成している。

  トレド遠望 

 当時、何処をどの様に案内されたかは、殆ど記憶が無く、残念ながら、自分で写した写真等も見当たらない。

ネット情報によれば、最近のトレド観光の主な巡回地は、下図左のようで、当時も、多分、これらの、?〜?を廻ったと思われる。

 

 先の写真のトレド遠望で、右手の高台に見える立派な建物は、何だろうかと、ネットで調べていく内に、下図右のような、異なるトレド観光案内図が見つかった。

 この右図は、左の図よりやや詳しく、写真にある建物は、以前の国王の居城だったアルカサル(王城)と確認できたのだが、この建物は、現在は軍の博物館となっているようだ。

又、図には、後述する、グレコの絵のあるサンタクルス美術館も表示されている。 

  

  トレド旧市街の狭隘さには驚かされた。イタリアのフィレンツエの旧市街の窮屈さも印象に残っているが、トレドも相当なものだ。

旧市街にある大聖堂(カテドラル)に入って、高い内部を見上げた印象は残っている。

 大聖堂の目の前に、トレド市の市庁舎があることを最近知ったのだが、よくぞ、住民サービスが出来るものだ、と思う。あの狭苦しい旧市街で人間が生活を営んでいる訳で、上下水道や電気、電話等もちゃんと整備されているのだろうと、狭く傾斜した石畳の道を歩きながら、驚きを持って思ったことであった。 

 川に面していない後背地には、トレドの新市街が広がっているようだが、行政上は、新旧の市街地をどのように連携させているのだろうか。

 

 

●スペインでのグレコの絵 

 2回目にスペインを訪れたのは、某コンピュータ企業主催のツアーだったが、この時も、トレドを訪れ、旧市街の似たような場所を廻っているが、詳細は省略して、スペインを代表する画家の一人と言われるグレコいついて取り上げたい。

グレコは、1600年代初期に活躍した画家で、スペイン人ではなく、元々は、ギリシャ人の様だが、晩年は、トレドに住んだようだ。

これまで、マドリードのプラド美術館や、トレドのサン・トメ教会やグレコの家で見た、グレコの絵は、余り印象には残らなかった。

 

 2回目のトレド訪問の時に、先の地図にある、サンタクルス美術館を訪れたが、そこに所蔵されている、著名な「無原罪のお宿り」等の絵を観て、深い感動を味わい、強く印象に残ったのである。(実は、美術館の名前や、絵の名前は、今回分ったのだがーーー)

 大きな絵を、下から見上げるように観賞した記憶がある。通常の宗教画と比べて、描かれている人物が、 縦長になったり、うねるような感じにデフォルメされているが、それがかえって、躍動的で、生き生きとしていて、圧倒されるような迫力だ。 青を生かした色遣いには独特の雰囲気があり、光り輝くような表現も素晴らしい。

自分の場合、グレコと言えば、真っ先に思い浮かぶのは、青い色である。 

  グレコ 無原罪のお宿り

 この絵の「無原罪のお宿り」というタイトルは、当時は知らなかったものだ。今回、改めて調べて分ったのだが、カソリック信者でない者にとっては、何とも硬く、難解な言葉である。

 無原罪とは、原罪が無い という意味のようで、お宿り とは、子を懐妊したことだという。 神の子イエスを宿し、生んだ聖母マリアの存在を重視しているカソリックでは、この懐妊をどのように解釈したのだろうか。

 原罪という概念は、簡単に言い表せるようなものではないだろう。でも、部外者として敢えて言えば、人間の罪の原点とも言える、情欲の後に子を宿すことが、マリアの場合だけは、聖霊による懐妊であることから、罪から逃れている(原罪が無い)という解釈となるのだろうか。言わば、例外扱いとするということで、数学的な不連続点を作るようなものだろうか。

 極めて重要なテーマとあって、グレコの、この絵の他にも、同じようなタイトルの付いた絵が、多数あるようだ。(無原罪の御宿り - Wikipedia)  

 最近分かったのだが、昨2012年秋〜今2013年春に、この絵を含めて、世界のグレコの作品を一堂に集めた展示会(グレコ展)が、大阪と東京で開催されたようだが、残念ながら、全く知らなかった。(「エル・グレコ展」東京展、国立国際美術館にて開催中!

 

●フラメンコの文化

 2回目のスペイン訪問では、団体ということもあり、マドリードで、一夜、フラメンコを堪能した。本場の、ギターのリズムと情熱的な独特のステップが素晴らしい。勿論、パエリヤ等のスペイン料理も併せて楽しんだ。

 元々アジアに住んでいた流浪の民ジプシー(今は、ジプシーではなく、ロマと言うようだが)が、ヨーロッパに移動し、流れ流れて、ピレネー山脈を越えて、スペイン南部のアンダルシアに辿りつき、その地で盛んになったものがフラメンコと言われ、歴史は、比較的新しいようだ。

 アフリカを経由して海を越えてイベリア半島に入って来たイスラムも加わって、独特の文化を生んでいるようだ。(小松原庸子スペイン舞踊団 > フラメンコに関する情報

 フラメンコには、歌と、踊りと、ギターの、3つの分野があると言う。それぞれに、奥は深いようだ。フラメンコと言えば、ついつい、リズムやステップに目が行ってしまうのだが、先ず大事なのは歌だと言う。この歌、余り聞き覚えてはいないのだが、激しい踊りの中で、人生の喜びや悲哀を歌っているものも多いようだ。

 アンダルシアのセビリヤを舞台にした、フランスの作曲家ビゼーの名曲、歌劇「カルメン」で、赤いバラの花をくわえて、カルメンが踊るのはフラメンコだろう。

 

 帰国時、マドリードのバラハス空港で、記念に、かなり大きなフラメンコ人形を買い求めた。この人形、やや埃を被ってはいるものの、現在も、自宅で健在である。

  やや埃を被っている フラメンコ人形

 

 

 

 

 

 

 


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