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富岡製糸場と絹産業遺産群  2

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2014年6月25日(水) 富岡製糸場と絹産業遺産群 2 

 

 

 今般、世界文化遺産として登録された、富岡製糸場と絹産業遺産群の関連で、絹の話題と富岡製糸場については、当ブログで、 

 

     富岡製糸場と絹産業遺産群 1 (2014/6/22)

 

の記事で取り上げた所だ。

 

 本稿は、この続編となるもので、絹産業遺産群、即ち、養蚕法等に関する事項を中心に取り上げている。この関連では、前稿にもあるが、以下が構成資産として登録されている。

 

   ・田島弥平旧宅(藤岡市)

      瓦屋根に換気設備を取り付けた近代養蚕農家の原型

   ・高山社跡(藤岡市)

      日本の近代養蚕法の標準「清温育」を開発した場所

   ・荒船風穴(下仁田町)

      自然の冷気を利用した日本最大規模の蚕種貯蔵施設

                                     (富岡製糸場と絹産業遺産群 - 概要 )

 

  大規模な製糸工場が成り立つためには、糸を採る大量の繭(まゆ)を、安定的に供給するための基盤となる養蚕業が必要だ。そして、この養蚕のためには、当然だが、蚕(かいこ)の飼料である、広い桑畑が要る。 

 明治から大正、昭和にかけて、多くの先人達の工夫と努力によって、今回の遺産にあるように、日本の養蚕業の基礎が出来、生糸の生産が、我が国の一大産業となった。群馬県は、これらの過程で、中心的役割を担って来ている、と言えるだろう。 

 本稿では、上記各遺産の内容については、筆者自身の、往時の経験等に照らしながら、見てみることとしたい。 

 

 

◎終戦前後の思い出

 筆者の記憶では、終戦前後の昭和20〜30年頃(1945〜1955年頃)(〜小学生・中学生)になるだろうか、山形の田舎の家では、毎年、養蚕が行われていた。

年に何回か、農協から、黒い細かい粒粒の、蚕の卵である蚕種が届けられた。春蚕、秋蚕、晩秋蚕などと呼ばれていたようだ。  

 

 蚕は、「おごさま」と、敬称つきで呼ばれ、飼育期間中は、「人さま」よりも大事にされた程で、蚕を飼う部屋の温度管理等には、結構、神経を使っていただろうか。

 遺産の中にある、近代養蚕農家の構造や、標準的な養蚕法等が、集大成された形で、我が田舎も含めて、全国的に普及して行ったと思われる。

 

 桑畑に行って、桑こきを手伝ったことも多いが、何度も、毛虫に触って、赤く腫れあがり、痒い思いをした。 慣れている親父、お袋は、平気だったがーー。 

摘んで来た桑の葉を蚕に与えると、蚕室の沢山の蚕が、一斉に桑の葉を食べる音が、「シャーーーー」というように聞こえたのを覚えている。

 

 蚕は、暫く経つと、桑を食べなくなり、繭を作らせるために稲藁で作ったアパートのような構造物(マブシと言った?)に移すと、彼らは、狭い空間で、せっせと繭づくりを始める。

そして、程なくして白い繭ができ、最後に、繭を外し綺麗にして、農協に出荷した。

 当時は、どの農家でも、似たような作業をやっていただろうか。 

 

 今回の遺産の中に、荒船風穴というのがあるが、これは、蚕種を保存し、年に複数回の養蚕を可能にするための工夫で、当時としての、天然の冷温貯蔵庫だったのであろう。 

繭を生産して貰うために、養蚕農家を纏める立場にある地域の農協などの、苦労が思われるところだ。 

 

 

◎蚕の一生

 繭を作る蚕は、蚕蛾(カイコガ)という名前のついた蛾の幼虫で、おとなしい虫だ。白っぽい身体に大きい目のように見える模様がある。触ると、つるりとしてひゃっこく、気持ち悪いものではない。

  蚕たち(ネット画像より)     

 蚕は、卵から孵って幼虫となり、桑の葉を食べ、脱皮しながら大きくなり、成長期は白い色だが、黄色味を帯びると桑を食べなくなり、繭を作り始める。繭の中で蛹になり、羽化して蛾(成虫)になって、自分で繭に穴を開けて中から出て来て、産卵する。

彼らの一生は、このようなサイクルの繰り返しだ。(カイコ - Wikipedia) 

  蚕蛾(ネット画像より) 

 この繭を利用して、生糸を取る訳だが、羽化して繭に穴をあけて出て来る前に、蛹の状態で煮沸して殺処分する。  

         

 蚕は、家畜化された動物だが、昆虫では唯一の家畜という。 古くから飼い慣らされている蜜蜂は、家畜には近いものの、蜜を求めて山野を飛び廻るなど、家畜と言うには、やや無理があるだろうか。

家で飼う蚕(家蚕 かさん)に対して、野で生きていてカラフルな繭を作る昆虫の幼虫は、総じて、野蚕(やさん)と言われるようだ。  

  

 

◎ 糸取り

 一匹の蚕の幼虫が、己の口から糸を吐き出して作る繭だが、糸の長さは、1000m〜1200mもあるという。

素朴な疑問だが、工場等で繭から糸を取りだす時に、糸の最初をどの様にして見つけ出すのだろうか。 

 綺麗な紐を巻いて作った手毬や、編み物用の毛糸球なら、外側からほぐしていけば簡単である。一方、園芸用の麻縄や、荷造り用のビニル紐などは、一般的には、外側を残したまま、中心部分から取りほぐしていくようになっている。

 では、生糸用の繭では、どうするのだろうか。

 

 繭が完成すると、最後に糸を吐いた部分は、完全に内側に封じ込められてしまい、穴を開ける訳にはいかないので、繭から糸を取るためには、繭を煮て柔らかくし、外側から解(ほぐ)していくしかない。

 この場合、蚕が繭を作る時の最初の部分(キビソというようだ)は、繊維が短いので使わず、綺麗な長い繊維が見つかった繭の糸を、複数本撚り合わせて、糸取りが行われるようだ。糸の端(糸口)を見つけ出す小道具もあるようだ。この道具は、「みご箒」というようだが、稲藁の米粒を除いた後の穂先を、「みご」といった記憶があり、それで作った箒かもしれない。(繭の糸取り(糸引き)方法 里山のクラフト便り

 

 富岡製糸場では、同時に5個の繭から糸を取って、撚り合せていたようだが、その中の特定の繭の糸が少なくなって中の蛹が見えたり、糸が切れたりした場合、機械を止めずに、手早く、新たな繭の糸口を見つけ出し、全体にからませるという、熟練技が要ったようだ。

この作業をゆっくりやっていると、撚り合せる糸の太さが、不均一になってしまうのだ。 

 

 

◎ 自家利用の繭

 汚れてしまったり、蛾が出て穴が空いてしまった繭や、蚕2匹が中に入って作った一周り大い繭等は、規格外れで出荷できないので、屑繭として、自家で利用することとなる。

 

 これらの繭は、湯で煮た後、適宜穴を見つけ、下図のように両手で伸ばして、真綿を作った。真綿は、綿入れに使うなど、防寒着などに役立った。

     真綿の手作り(ネット画像より)

 遠廻しに言う譬えに、「真綿で首を絞める」という言葉がある。 が、真綿を使って、手加減せずに本気で絞めたら、死んでしまう位、結構丈夫だろうか。

現在でも、真綿は、市販されて家庭等で利用されているとともに、高級織物の紬の材料にもなるようだ。  

 繭の中の茶色い蛹は、池の鯉などが喜んで食べてくれた。 この蛹を、興味本位に、油で炒めて食べたこともあるが、独特の臭味がり、そんなに美味しいものではなかった。 

 

 幼い頃の思い出だが、2匹の蚕が作った大きな繭の中に、夏の夜、田圃で採ってきた蛍を入れて楽しんだものだ。 暗闇の中の繭が、蛍の光で、ボーっと明るく見える。

叶うことなら、できればやってみたいのだが、繭も、蛍も身近に無い現在では、所詮、無理というもの。

 

 ホタルブクロ(蛍袋)という名前の山野草があり、筆者の大好きな草花の一つである。 この詩的なネーミングの語源だが、花の形や色が、上記の、蛍の入った繭の明かりのように見える、ことからきているとも言われ、当ブログの、以下の記事でも触れている。

   ポテトホタルブクロ (2010/6/14)(ポテトホタルブクロ - つれづれの記


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