Quantcast
Channel: つれづれの記
Viewing all articles
Browse latest Browse all 861

富岡製糸場と絹産業遺産群  1

$
0
0

2014年6月22日(日) 富岡製糸場と絹産業遺産群

 

 

 群馬県にある、富岡製糸場と絹産業遺産群が、ユネスコの世界文化遺産として正式に登録された。

 各国からの申請案件を審査した、ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が、日本から出されていた本件について、日本の産業の近代化に大きく貢献した産業遺産として登録するに相応しいものであるとして、ユネスコの世界遺産委員会に対して勧告する旨を伝えてきたのは、この4月である。

 そして、今月の15日から、中東カタールのドーハで始まった今年の世界遺産委員会で、40件程の案件が審議され、日本時間の昨夕、本件の登録が正式に決定された。

 

 我が国としては、昨年6月の富士山の登録に続く快挙で、これまで尽力して来た関係者の努力に敬意を表したい。

我が国として登録されている世界遺産は、今回で、4件の自然遺産と、14件の文化遺産となる。文化遺産は、多くが社寺仏閣などだが、今回の案件は、石見銀山遺跡に続く、2件目の産業遺産となる。

 

 

◎ 登録される資産

 今回の案件をユネスコに申請するまでには、国内的に長い歴史があり、どの範囲まで含めるか等を巡って、紆余曲折があったようだが、「富岡製糸場と絹産業遺産群」として、最終的に登録される構成資産は、以下の4件である。(富岡製糸場と絹産業遺産群 - 概要

  ・富岡製糸場(富岡市)

    フランスの機械製糸技術を導入した、日本初の本格的製糸工場

  ・田島弥平旧宅(藤岡市)

    瓦屋根に換気設備を取り付けた近代養蚕農家の原型

  ・高山社跡(藤岡市)

    日本の近代養蚕法の標準「清温育」を開発した場所

  ・荒船風穴(下仁田町)

    自然の冷気を利用した日本最大規模の蚕種貯蔵施設 

 

           構成遺産の所在

 

 この所、登録が間近になった事もあり、マスコミ等で取り上げられる機会も多く、筆者も、最近のNHK−TV番組で、

     2014/5/21 歴史秘話ヒストリア  富岡製糸場 世界遺産へ

                       〜世界を魅了した少女たちのシルク〜

     2014/6/13 ろーかる直送便 「なるほどスゴイ! 富岡製糸場」

などを見る機会があった。

 休日等は、現地には、大勢の観光客が訪れているようで、正式登録で、人気は、一層高まっているようだ。

 

 構成資産の内容については、教科書や、報道等で一般的に知られている事項については、極力簡略にし、筆者として、興味を惹かれる事項等を中心に、率直なコメントを、何回かに分けて述べて見たい。

今回は、絹を取り巻く環境と、富岡製糸場について取り上げたい。

 

 

◎ 絹の歴史  

 天然繊維である絹は、蚕(かいこ)を育てて繭を得る養蚕(ようさん)と、それから採る生糸(絹糸)が基となるが、この絹糸を使った絹織物は、古来、高級品として珍重され、貴人が常用したが、一般庶民が使った、木綿(や麻)と、よく、対比される。

 これらの技術は、古代中国が起源と言われ、そこから、世界各地に広まって行ったようだ。中国で生産された貴重な絹が、中央アジアの交易路を通じて、他の文物と共に、ヨーロッパなどの各地に伝えられた。歴史家が象徴的に、この交易路を「シルクロード 絹の道」と名付けたのは、周知のことである。 

 養蚕や絹の技術は、日本にも、弥生時代、稲作などと同じ頃に、朝鮮半島を経て伝えられたようだ。(養蚕業 - Wikipedia ) 

以降、日本でも養蚕業と絹織物の生産が、各地で行われてきたが、あくまでも、家内工業的なものだったろうか。日本各地には、今も、伝統的な絹織物の銘品がある:西陣織 結城紬 加賀友禅 等 (経済産業大臣指定伝統的工芸品 - Wikipedia

 

 

◎ 富岡製糸場

 今回登録された案件の中心となる、旧富岡製糸場だが、まだ、行ったことは無く、放送やネット情報を元に、以下に概略見て見たい。

 明治新政府が、生糸を輸出して、外貨を得る目的で、群馬県の冨岡に、近代的な官営の製糸工場を建設し、繭倉庫などの関連施設も含めて整備したのは、明治5年(1872年)と言われる。

レンガ造りの広大な工場(木骨レンガ造り)を建て、そこに、操糸器(茹でた複数の繭から糸を取りだす釜と巻き取り機など)300台をフランスから輸入して設置し、フランス人技術者も招請して指導してもらったようだ。当時のフランスでも、操糸器の数は最大で150程度だったといわれ、これだけの数の釜をもつ工場は、世界に例が無かったという。大変な投下資本が必要となる、英断だったろう。 

 

             富岡製糸場 全景絵図 (ネット画像より) 

 操糸器を扱う作業者は「工女」と呼ばれ、全国各地から集められたようだ。上述のNHK番組によれば、8時間程度の労働、日曜は休み、働きに応じたランク付けと処遇、など、前例のない、近代的な労働環境だったという。

 当時の若い女性の憧れの職場だったようで、彼女達は、今流に言えば、誇り高きセレブだっただろうか。下図に描かれている風貌にも、その心意気が表れているようだ。 

         工場内の錦絵(ネット画像) 

 彼女達は、この官営工場で身につけた製糸法やノウハウを、故郷に持ち帰り、全国各地に作られた製糸場で、指導的役割を果たしたという。 

番組では、当時、実際に働いた、某工女の日記を基に、日常的な悲喜こもごものエピソードも紹介された。 

 

 でも、残念なことだが、彼女たちの職場環境が良かったのは初めの頃だけで、時代が進むにつれて、各地の製糸場の労働環境は、次第に、劣悪なものへと変わっていったようで、その落差の大きさには驚かされる。女工哀史などと言われる、多くの悲話が生まれた。

例えば、飛騨から、山間の野麦峠を越えて、信州岡谷の製糸工場へ糸取り女として働きに出る彼女達の実話等が紹介されている(下図)

         

 

◎ 輸出品の中心となる絹糸

 日本で生産された生糸は、働く工女たちの細やかさ・器用さもり、品質が高く、米国などで大変な人気だったようで、1900年頃には、生産量は、中国を抜いて、世界一となったという。

 生糸は、日本における産業の近代化の黎明期での、日本からの重要な輸出品で、それで稼いだ金が、日露戦争の軍資金となったとも言われる。日本の輸出品のなかで、生糸の占める割合は、時期によっては、3分の1にも上ったと言われる。

官営の八幡製鉄所が建設されたのは、大分後になった明治34年(1901年)だから、明治初期での生糸の生産の重要性が分るというものだ。

 

 富岡製糸場は、明治の後半には、財閥に払い下げられて民営になり、その後も、経営主体は変わったものの、終戦前後まで、国内の製糸産業の中心的役割を担ってきているようだ。(富岡製糸場 - Wikipedia) 

昭和に入ってからの、アメリカでの人造絹糸(レーヨン)の発明等、各種、化学繊維・人造繊維の出現で、天然繊維を取り巻く経済環境が激変したことで、経営が苦しくなり、昭和62年(1987年)に、製糸場の操業を停止するに至ったようだ。

繊維産業全体での、天然繊維や化学繊維の推移について、明治から現代までの、国内、国際の、客観的データについて、機会をみて、調べて見たいと思っている。  

 

 

◎ 産業遺産と技術革新

 富岡製糸場は、建設後、長期間に亘って実際に使われてきただけでなく、操業停止後も、民間企業(片倉工業)によって、施設の保全の努力が続けられて来たようで、未だに、主要な建物と設備が残っているというのは驚きである。その御蔭で、今回の世界遺産の登録に繋がったようだ。 

 現在、施設全体を管理している群馬県は、今回の登録を機に、工場の一部の機械を整備し、生糸作りを再開する計画があるようで、嬉しいニュースと言えるだろう。

 

 世界遺産への今後の登録候補として、国内の暫定リストには、12件が挙げられている。 (日本にあるユネスコ世界遺産・国内暫定リスト

このリストの中には、「明治日本の産業革命遺産」が載っており、この案件には、8箇所もの多くの遺産・遺跡が含まれている。

 この中の一つに、上述の八幡製鉄所の関連施設も含まれているが、製鉄用の本体設備は、その後、世界に追い付き追い越すための技術革新の積み重ねで、当然の事ながら、往時の姿はとっくに無い訳だ。

今回の富岡製糸場も、この、明治日本の産業革命遺産に含まれても良い性格のものだが、上述のように、単なる遺産・遺跡とは異なるもの、とも言えるだろうか。

 

 富岡製糸場関連の設備は、創業以来から現在まで、幾多の変遷の中で、240年も経過している(操業停止後からは27年)のだが、上述のニュースのように、一旦引退後に、再び現役に復帰して、稼働するというのは素晴らしい事だが、一方で、製鉄技術などと異なり、天然系製糸産業分野の技術革新は、そこで止まってしまっている、とも言えようにも思えるのだ。 

 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 861

Trending Articles