2019年2月18日(月) 共感ということ 再び
先日、たまたまTVを見ていたら、昨年秋の中国地方の洪水災害で、青年の息子を亡くした親御さんが、同じような経験をした人達との交流を通して、次第に生きる勇気を得ていくという、印象深い話が放映された。
その番組で、
emphathy エンパシー
という言葉が出てきた。あまり聞き慣れなれない言葉(英語)だが、「共感」と訳されるようだ。
一方、
symphathy シンパシー
という言葉はよく聞くことばで、「同情」と訳される。左翼系運動の支持者を意味する、「シンパ」の語源でもある。
共感と同情とは、どう違うのだろうか?
以前、当ブログで、東日本大震災の頃に、
共感ということ 1 (2013/1/23)
共感ということ 2 (2013/1/27)
共感ということ 3 (2013/2/02)
という記事を、シリースもので投稿したことがあり、この中では、上記の2つの言葉について、同感、哀れみ、慈悲、感情移入、惻隠、憐憫、無償の愛などの、類似の言葉とともに取り上げているのだが、emphathyのことは、すっかり忘れていた!
今回は、ごく簡単に、これらの言葉について、再び取り上げている。
何事でも、実際に経験すればよく理解できるようになる、というのは世の常で、TV番組の中でも、ネットで調査したところでも、empathy:共感は、実際に経験した人にしか理解できない感情、というトーンであった。(sympathyとempathyの違い 参照)
でも、極めて感性豊かな人は、経験がなくても、人の話を聞いたり、読書を通じてでも、共感できるということだろう。
両者の違いについて、心理学的にはどのように異なるのかは、よく分からなかった。
◇ sympathyは、日本語では同情となり、漢字の通り、同じ情(気持ち)を感じるということだろう。
語源のラテン語では、手持ちの英和辞典では、以下のようだ。
sympathy=syn(with:ともに)+pathos(feeling:情念)
この感情は、ある大変な状況に遭遇した時、
・気の毒だ
・可哀そうだ
などと感じる、普通の人なら誰でも抱く感情だ。
これを、少し踏み込んだ見方をすれば、自分は別にしっかりしていて安全地帯にいる状態の時、他者に対して抱く感情と言え、、やや、上からの目線ともいえようか。理性も働いており、自己犠牲の気持ちまでは無いようだ。
◇ 一方,empathyは、共感で、語源のラテン語では、以下のようだ。
empathy=em(in:なかに)+pathos(feeling:情念)
語源では、withとinの違いとなる。
他者と同じ立場で感じることができるということで、目線は、他者と同じレベルだろうか。
他者と接する時の態度としては、まず聞き役になり、ウンウン、そうだね、辛かったろうね、と相槌を打つことから始まるだろうか。自分の意見や感想を言うのは、後になってから、相手から求められてから、ということだろう。
状況次第では、理性も失うほどに感じ入り、自己犠牲も辞さない行動となることもあろうか。
このような態度をとれるのは、受容、寛容、抑制、忍耐、といった徳性が備わっている聖人、宗教家等のレベルで、並の人間には、極めて難しいことだ。
“この世界には、自分には理解できない多くのことがある”
と率直に自覚し、謙虚になることが、凡人としての最低限の処世訓だろうか。