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いろはかるた アラカルト  続々

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2018年8月5日(日) いろはかるた アラカルト 続々

 

 

 最近、当ブログに

     ①いろはかるた          (2018/7/1) 

     ②いろはかるた アラカルト  (2018/7/6)

     ③いろはかるた アラカルト 続(2018/7/16)

を投稿している。

 ①では、いろはかるたの概略に触れた後、江戸いろはかるたについて、自分で思い出せるものをリストアップしてみた。

 ②では、江戸いろはかるたで、意味の良く解らないものなどを取り上げている。

 ③では、筆者の好きなかるたを幾つか取り上げた。 

今回は、余り好きでないかるたを取り上げている。

 

◇好きでないかるた

  筆者として、余り好きでないかるた、賛同しかねるかるたは、以下である。

     ●知らぬが仏 

 このかるたは、7語の言い易い句で、誰でも知っているものの一つだ。今回参照している辞典(故事ことわざ辞典 鈴木、広田編 東京堂出版 1972年)の解説等によれば、この意味するところは、「知ってしまえば腹が立つことでも、知らなければ、仏のような平穏な境地でいられるということで、余計な事は、知らない方が幸せ、の意」とあり、処世術の一つであろう。

意味するところが上述のようなら、「知る」ということに対して、「真実に向きあわずに、関わりを持つことから逃げる、余りに日本的なスタンス」とも言え、筆者には、この点が気に入らないところである。

 そして一方で、「当人だけが知らずに平気でいる様を、周囲が、憐れみ、嘲ることばにもなる」、とあるが、こちらのシニカルな姿勢を言う句としては、了解できるところだ。

     

 

類似の諺として、見る、聞く、知る と 仏と神と極楽等を組み合わせた、以下の様な諺もあるようだが、同様の意味合いだろう。

  ・見ぬが仏 知らぬが神 

  ・見ぬが仏 聞かぬが花

  ・知らぬは仏 見ぬは神

  ・知らぬは仏 見ぬが極楽

 庶民の世渡りの知恵なのだが、このように、仏や、神などを引き合いに出すところは面白い。 庶民としては、“知らぬ、存ぜぬ”と、知らぬが仏で通すしかなかった、不幸な時代を反映しているようにも思える。

 

◇ 他との情報のやり取り手段

  無人島で1人生きていく訳にはいかない社会生活では、人との関わりやコミュニケーション、情報のやり取りは必須である。

人間の情報の入出力手段として、基本となるのは、目、耳、口であり、各種情報が処理されて、「知」となる訳だ。(他に、嗅覚、触覚、表情、ジェスチャー等もあるが)

 入力: 目 目を開けて見る  ⇔目を閉じる

      耳 耳で音を聞く    ⇔耳を塞ぐ

 出力: 口 口を開き声をだす ⇔口を噤む

目は、瞼を開いている限り、情報が飛び込んでくるため、積極的に情報を遮断するには、目を閉じる・目を覆うしかない。 視覚による情報が情報全体の83%も占めていると言われる。(視覚情報の優位性: よく見えること。よく生きること )

耳は、通常は、開かれていて音を聞き、生存にかかわる最も基本的な情報を、常時監視しているとも言われる。積極的に音の情報を遮断するには、耳を塞ぐしかない。

口は、声を出す手段で、かなり、意志が関係する。 会話を望まなければ、積極的に口を噤んで、声を出さないこととなる。

 

◇三猿の叡智

 このことで咄嗟に思い浮かぶのは、日光東照宮の陽明門にある、余りにも有名な下図の「三猿」の彫刻だ。昨年春、平成の大改修が完了したようだが、筆者も、以前、何度か訪れた時に、門を見上げたことだ。

三匹の猿の動作を、彫刻で表わしているが、三猿の動作自体は、幼稚園の子供にも解る可愛いものだが、一体、何を現しているのかは、筆者には、実は、良く解っていなかった。

解説書には、人の非や欠点は、誰しも興味深く、知りたがり、言いふらしたくなるのが世の常だが、それを抑制する以下の様な叡智が、三猿の教えとある。

    見ない猿(見ザル):両目を閉じて→人の非(短)を見ない

    聞かない猿(聞かザル):両耳を塞いで→人の非を聞かない

    言わない猿(言わザル):口を覆って→人の過ちを言わない

すなわち、人の非や短所や過ちについて、積極的に情報を遮断する叡智と言われており、日本語の文語体の否定の“ザル”と、“猿”を掛けている訳だ。

            

                                    陽明門の三猿(ネット画像)

  三猿の知恵の淵源は、古代エジプトとも言われ、中国経由で日本に伝わったと言われている。日本では、上述の陽明門の彫刻が超有名だが、庶民の庚申信仰の中でも、生きていたようだ。類似のものは世界各地にあるという。(三猿 - Wikipedia より)

  三猿について、ネットで調べていたら、面白い看板が見つかった。米国の情報機関CIAのある施設の門の付近に、職員向けに、以下の看板があると言う。(上記 サイト より) 

     

看板には、上図のように、三通りの仕草をした三猿が描かれていて、以下の意味の文言が書かれているようだ。曰く、

     ここで見たこと、

     ここでやったこと、

     ここで聞いたこと は、

     ここを去る時、

     ここに留めていくように。(外で  言わないように) 

HERE(ここ)とHEAR(聞く)、LEAVE(去る)とSTAY(留める)の、ユーモアあふれる語呂合わせが、素晴らしい!

 

◇「知らぬが仏」の姿勢

  三猿の教えは、積極的に情報を遮断する叡智と言えようが、「知らぬが仏」には、どんな知恵があるのだろうか。

都合悪いことは聞かない(聞かなかった)ことにする、余計な事には関心を持たず首を突っ込まない、見て見ぬふりをして見過ごす、お節介はしない、といった極めて消極的な処世の姿勢だ。

この時代、うっかり、事に関わると想定外の事態が起こるので、誰しも、被害を恐れて、周辺の事象に、首を突っ込む勇気が出ないことは多い。 

また、よく知らない他人や外国人は、心理的バイアスがかかって、怖い人、悪い人に思えるので、防衛本能から(?)、身内や仲間内だけにしか心を許さず、知らない人には近づかず、出来るだけ挨拶もせず、知らんぷりをする、といった風潮もある。親や先生は、子供達にはこのように教えるだろうか。

これは私見だが、「知らぬが仏」は、周囲に対して、知らんぷりな態度を取ることを、非難する言葉として、使えるようにも思える。

 一方、以下の句

       ●触らぬ神に祟りなし(大阪)

は、関係さえしなければ災いを受けることは無い、という処世訓で、関わりを持たないことを良しとする姿勢だ。

        ・触らぬ蜂は刺さぬ

        ・近づく神に罰当たる

なども、同意である。 

神仏には、元々、御利益があることから近づく訳だが、神様の祟りとは、教えや約束を守らなかった場合に、罰を受けるという意味だろう。

 

  「論語」には、為政者に都合のいいように、「民は寄らしむべし、知らしむべからず」とあるようだが、江戸幕府にも、この様な魂胆があり、件の彫刻はこれを暗示している、と取るのは勘ぐり過ぎだろう。 

でも、現今の情報化時代にあって、世界の国々の中には、国家レベルで情報を遮断したり、操作していると言われる国も見受けられることだ。

 言うは易く、行うは難いことだが、個人レベルでも、国家レベルでも、先入観を持たずに、事の真実を知ること(知る勇気を持つこと)から始める必要があるだろうか。

 

 

 

 

 


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